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横浜地方裁判所 平成10年(わ)93号 判決 1998年3月30日

主文

被告人を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

押収してある包丁一本(平成一〇年押第六四号の1)を没収する。

理由

(犯行に至る経緯等)

被告人は、昭和五五年Aと結婚し、両名の間に昭和五七年五月二二日に長男B(以下「長男B」あるいは「長男」という。)が、昭和五九年二月二五日に次男が、昭和六一年四月二〇日に長女が生まれた。被告人は長男Bが出生したころ一時育児ノイローゼ気味になったこともあったが、その後は特に変わったこともなく、長男Bも中学に進学した。

ところが、長男Bは、中学校一年生となった平成七年七月ころから登校拒否をするようになり、同学年の二学期からは全く学校に行かなくなり、被告人が登校を勧めたりすると鬱積した不安から苛立ち始め、家の中の物に当たったり、ときには被告人にも暴力を振るい、その苛立ちや興奮状態が収まると逆に被告人に過度に甘えた態度を示したりしていた。そのため、被告人は、児童相談所でカウンセリングを受けたり、民間の教育機関である教育研究所に長男Bを伴って赴きカウンセリングを受けたりしたが、長男Bの登校拒否は続き、そう状態とうつ状態を繰り返すなど、長男Bの情緒不安定な状態は変わらなかった。被告人は、右のような被害者の状態をみて自分の子育てが誤っていたのではないかと自責してひとり思い悩み、同年九月ころからはアルコールに逃避するようになり、また、間もなくノイローゼと不眠症のため、精神科医にも通院するようになった。

長男Bは、家族以外の人と顔を合わせるのを極度に嫌っていたが、平成八年八月ころに至ると、家族とも離れて一人になりたいとして亡祖父母の家であった後記南太田の家で寝泊まりするようになり、被告人と夫は、長男Bが一人になることで同人の苛立ちなどが収まるならばと考え、静観することにして、被告人が週に一回から三回ほど同所を訪れて食事を作ったりしていた。しかし、長男Bの登校拒否は続き、訪れた被告人とのちょっとした言葉のやり取りから苛立ち興奮し、被告人に暴力を振るうことが相変わらず繰り返された。そのため、被告人は、平成九年夏ころからは長男Bの将来に悲観的な思いをいだくようになっていったところ、同年一一月ころに至ると、中学一年生の次男も登校拒否をするようになり、ますます思い悩みその心労が重なった。本件犯行当日である平成一〇年一月八日、新学期が始まったにもかかわらず次男が登校拒否したため、被告人は、朝からひどく落胆していたが、雪が降ってきたので長男Bに何か暖かいものを食べさせてあげようと考え、手料理を持って午後六時前ころ後記南太田の家を訪れた。その際、長男Bが眼鏡が壊れたと話していたため、被告人は、近視のひどい長男Bが眼鏡がないと不自由な思いをするだろうと案じ、その修理を近所の眼鏡店に依頼したところ、これに気が障った長男Bが勝手なことをするななどと突然大声で怒鳴りつけた上、被告人の頭部を殴ったりして暴れ始め、あげくのはてには被告人が用意してきた料理も蹴散らすなどした。被告人はこのような長男Bの振舞いを見てもはやどのように努力しても長男Bの状態が治らないのではないかという絶望感に襲われ、長男Bを殺して自分も死ぬしかないと思い、近所のスーパーマーケットから包丁を買って、午後七時ころ後記南太田の家に帰宅したが、もう一度長男Bと話し合ってみようと考え、同所台所において長男Bと話し合いを始めたが、しばらくすると長男Bが「俺の気持ちを分かってくれない。」などと苛立ちを爆発させ、家具を蹴ったり、ビール缶を投げつけて食器棚のガラス戸を割るなどして暴れた後、八畳和室の方へ出ていってしまった。被告人は、長男Bの右のような振舞いや散乱した台所の状況を見るうち、もはや被害者を殺して自分も死ぬほかないとの決意を固め、包丁を右手に握りしめて、被害者の居た八畳和室に向かった。

(罪となるべき事実)

被告人は、平成一〇年一月八日午後八時ころ、横浜市南区《番地略》A方において、登校拒否と家庭内暴力を繰り返す長男B(当時一五歳)の将来を悲観して、同人を殺害した上自殺しようと決意し、所携の包丁(平成一〇年押第六四号の1)で、数回、同人の前胸部、左側胸部、左腰部等を目掛けて突き刺すなどしたが、手に伝わった被害者の血のぬくもりに驚愕するとともに、同人が「ごめん、母さん。」と謝りの言葉を言ったことでその犯意を喪失し、攻撃を中止した上、一一九番通報して被害者を病院に搬送等したため、同人に入院加療約一四日間を要する胸腹腰部刺創の傷害を負わせたに止まり、殺害の目的を遂げなかったものである。

(証拠)《略》

(法令の適用)

罰条 刑法二〇三条、一九九条

刑の選択 有期懲役刑

中止未遂 刑法四三条ただし書、六八条三号

刑の執行猶予 刑法二五条一項

没収 刑法一九条一項二号、二項本文

(量刑事情)

本件は長男の登校拒否や家庭内暴力に将来を悲観した母親である被告人が、無理心中を企て、長男を包丁で刺したが、その際、同人が謝りの言葉を発したことに犯意を喪失して犯行を中止した殺人の中止未遂の事案である。

被告人は、この二年半近く長男が登校拒否を続け情緒の不安定から苛立ち暴力を繰り返していることに思い悩み、児童相談所などでカウンセリングを受けても事態が一向に改善されなかったばかりか、昨年一一月からは次男も登校を拒否するようになったため、ますます自分の子育てや子供の将来などにも思い悩んでいたところに、前述の犯行直前の出来事も重なったため、長男の将来を悲観し本件犯行に及んだというものであってそれまでの経緯やその間の被告人の心情には同情すべき点は認められるものの、その経緯の中には、長男自身も右のような現状から抜け出そうと苦しんでいる様子も窺われ、そのためには両親の支えがどうしても必要であるのにその養育上の責任を放棄し、安易に心中による解決を求めたことは、子供の幸せを願う親としてはあってはならないことであって、本件の犯行の動機にはやはり強い非難は免れない。犯行態様は、刃体の長さ一三センチもの鋭利な包丁で長男の胸部や腰腹部を、数度にわたって刺し、腰腹部の刺創は深さ一〇センチにも達するなど、その部位がわずかでもずれていれば死に至りかねない危険かつ悪質なものである。前述の経緯があるとはいえ、実母から、殺されそうになった長男の精神的衝撃も大きいものがあることは容易に推察でき、被告人の刑事責任は重いものがある。

しかしながら、前述のとおり本件犯行は長男が登校拒否をしていた上、家庭内暴力が止まず被告人の心労が重なっていたところに、次男までも登校拒否をするようになって、精神的に追い込まれた状態にあったものであって、その経緯においては同情すべき点がある。本件犯行は、被告人が長男のために良かれと考えて行ったことが、長男の気に障り突然暴れ出し、雪の降る中作って持ってきた料理も蹴散らされたりしたこと等から発作的に敢行されたものであって、その間には被告人のために斟酌できる点も見られる。更に、本件では、被告人が犯行を任意に中止し、未遂にとどまっていること、長男が宥恕の意思を示し、被害者の一刻も早い帰宅を願うなど家族としての絆も残っていること、被告人には前科前歴なく、被告人の夫も子の養育上の問題について今以上積極的に協力していくことを誓っていることなど被告人に有利な事情も多々見受けられる。

そこで、右の諸事情に、被告人の年齢、身上、経歴、家族の実状やその他諸般の情状も総合勘案して主文の刑を量定した上、今回に限り、その刑の執行を猶予し、社会生活の中で更生の機会を与えるのが相当と認めた。

よって、主文のとおり判決する。

(求刑 懲役四年)

(裁判長裁判官 仲宗根一郎 裁判官 宮本孝文 裁判官 内田貴文)

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